コロナ禍をどう読むか 16の知性による8つの対話
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Webに連載をしていて、全文読める。また、本書にはない質疑応答がこちらには載っている。
2021.12.28 (亜紀書房)
■ TALK 01 奥野克巳 × 近藤祉秋|「ウイルスは人と動物の「あいだ」に生成する」 動物との物理的距離は広げつつ、存在論的な距離は近く(ex: ワンヘルス)していくべきではないか
「あいだ」
精神科医の木村敏は、「あいだ」というのは単に「あいだ」じゃないんだ、と言っています。「あいだ」を、表面に出ている人やモノ現象に、裏面から作用を及ぼす力の場として捉えています。(p54) 面白くなかった。
■ TALK 03 吉村萬壱 × 上妻世海|「私と国の「あいだ」を/で問い直す」 抽象的な他者/親密圏の他者があって、コロナで親密圏の他者の重要性が理解されたと思うので、中間共同体が要請されるといいな、と。 ■ TALK 04 清水高志 × 甲田烈|「既知と未知の「あいだ」の政治」 面白くなかった。
■ TALK 06 山川冬樹 × 村山悟郎|「隔離され、画像化された二つの「顔」、その「あいだ」で」 ポスト・トゥルースについて、まじで面白いこと言ってるのはわかるんだけど、噛み砕ききれない。 地方的な歴史が偏在して、多元的な世界/現実がある、といったときに史実性とは別の回路がある 石倉敏明.icon ポストトゥルースという問題について考えるなら、神話はある意味では最初から「ポストトゥルース的」な語りの形式を含んでいます。つまり、数多くのヴァリエーションが存在していたり、互いに矛盾したストーリーが並存していたりします。ですから、正しいか正しくないかは本当に「かもしれない」としか言えないんです。しかし、それにもかかわらず、なぜレヴィ=ストロースが研究したような、人間を宇宙や自然の中に位置付ける見事な洞察や共存の哲学が、神話として語り継がれてきたのでしょうか。それは、人間が都合よく改変できるようなご都合主義とはもっとも遠い、非人間を尊重する態度を、世界中の神話が育んできたからだと思います。星々や季節の起原、洪水の後に生き残った先祖の話、火と料理の発明、疫病や戦争の記憶といった神話の要素は、ある集団の「無意識」から生み出されます。つまり、意識的な修正をほどこされた国家神話、あるいは権力者の歴史とは違って、ある集団が世界の中で勝ち取ってきた生存の根拠、そして哲学や倫理学が、神話の語りの中には断片的に含まれているのです。
もちろん、世界中の伝説を見てゆくと、歴史修正主義的な物語もたくさん存在しています。権力者が自分に都合の良い形でヒストリーを書き換えてしまうことも少なくありません。真実性を支える基準も、権力によって簡単に操作されてしまいます。しかし、あるイデオロギーや政治的な目的のために歴史を改変しようとする物語は、石井さんが指摘された「かもしれない」という柔らかな相対性を否定して、現実を頑なに固定しようとします。つまり、他の「かもしれない」を抑圧してガチガチに歴史を固めてしまうところに、むしろ「歴史操作主義」と言ったほうが良いような拙劣さが現れています。
神話の多くは、歴史的な現実を記録しようとするロゴスを相対化し、人間にとって決してコントロールできないカタストロフィーを物語に包摂します。ですから、神話的な現実とはある種の循環や反復の中で、何度も始まりと終わりを繰り返すわけです。このような神話の語りは、実は人間の歴史と、大地や天候の歴史、あるいは諸生物の歴史のギャップの中で生まれてくるものです。たとえばレヴィ=ストロースの方法論を、東アジアの感染症パンデミックの研究に応用しようとした人類学者のフレデリック・ケックは、そうしたギャップに立ち会うことで、歴史と神話の境界を見極めようとしています。ケックは、狂牛病以後の人間と動物の関係を踏まえた上で、まさにウイルスや細菌感染症の運び手となる鶏・豚・牛などといった動物と人間の種の境界を超えて、「パンデミック神話」という新しい神話のヴァリエーションが刻々と生み出されている、という興味深い指摘をしています。
この対談シリーズの第一回目(※)で、奥野克巳さんが非常に明快に、ケックが立脚している研究方法に対して「人間中心主義である」という批判を投げかけていました。その上で、人間以外の諸生物の生態や共生関係を踏まえたマルチ・スピーシーズ人類学の潮流や、人獣共通感染症を踏まえた「ワンヘルス」の人類学的動向が現れてきているというお話をされていましたね。確かに、人間社会の言説や医療体制の差異に着目したケックの研究は、人間の営みを超えてさまざまな生物種の相互関係をつぶさに調べてきた「マルチ・スピーシーズ民族誌」とは、一線を画しています。ただ、僕が思うのはポストトゥルース的な情報の氾濫や現代の人間性について、一貫して真摯に探求してきたのはむしろケックの方法なんじゃないか、ということなんです。
というのも彼はウイルスを一つの変異体として、つまり常にヴァリエーションを生み出すアクターと見定めた上で、それをグローバルに監視するWHOのような組織体であるとか、あるいは各地域の政府研究機関が、その地域ごとにどう新しい変異のあり方に対応してきたのかを観察し、記述してきたわけです。そして、それはレヴィ=ストロースが『神話論理』の研究でやったことの発展形でもある。つまり、レヴィ=ストロースがアメリカ大陸全体の民族誌を通して行った神話研究を、彼は現代のグローバル化した世界で変異していくウイルスと人の関係の中に見つけようとしているんですね。彼はパンデミックという現実は必ずしも疫学的な問題に還元できるとは言えなくて、そこにはむしろ神話的な無意識の構造が現れるんだということを書いています。ケックの代表作である『流感世界』には、副題として「パンデミックは神話か?」と書かれているんですが、ここが非常に重要なポイントないんじゃないかと僕は考えています。
つまり人間と微生物の世界の間に生じている「グローバル臨床」というフレームの中で、日常生活において発生するある種の集団的恐怖に対して我々がいかに影響されてきたのか、それに対してどのように動員力のある物語を生み出してきたのか、そういうことがケックの関心の焦点なんです。ケックは鳥インフルエンザを世界規模の「全体的な社会的事実」として扱おうとしていますが、これは明らかにマルセル・モース的なフランスの伝統に則った態度で、ある意味では文学的とも言えるような修辞を使うことも厭いません。ケックは『流感世界』の最終章で、プリシラ・ヴァルドの先行研究を踏まえて実は物語というものもまたcontagious、伝染的なものであるということを述べています。これはまさに神話的な認識なんですよね。
実は演劇やアートも同じです。感染する物語、あるいは感染する身体というものを、どういう風に生み出していくのかというアーティストたちの関心が、大きなテーマとしてある。たとえば土方巽の暗黒舞踏とか、アントナン・アルトーの残酷演劇などにおいては、明瞭に「感染」という言葉が使われていたり、ペストやウイルスの比喩が使われていたりします。衛生観念を持った現代人がもっとも気をつけければいけない「感染を避ける」という常識を、彼らはアニミズム的に侵犯していくことでナチュラリズムに染まった世界に激震を走らせました。これは近代社会にとって、最大の禁忌の侵犯です。彼らは身体をもって別の身体に何かを感染させていくことが、芸術実践にとってもっとも重要なことだということを言っているわけです。
なぜ疫学と神話が、公衆衛生と芸術が問題系として繋がるのか。それはまさに「全体的な社会的事実」という多様体の中で感染症という現実が響き合っているからです。ちなみにフレデリック・ケックはフランスの国立科学研究センター(CNRS)に所属しつつ、ケ・ブランリ美術館の研究部門で働いています。同時に、彼もまたWHOなどと連携しながら、「ワンヘルス」との関係で世界的な疾病管理がどのように構築されてきたのか、というプロジェクトにも関わっているようです。ケックによれば、現在の国際社会が、グローバルな感染症研究の領域で自然界の貯蔵庫にある様々な遺伝子の変異を研究するように、グローバルアートの領域では文化的な遺産をどうやって変容させ、新たな作品を生み出していくのか、そういう変異体をめぐるゲームになっている、ということを指摘しています。現代のミュージアムが、まさに無菌状態の管理空間としてウイルスや細菌を駆除しながら、実際には文化的な領域で変異し、増殖する新たな価値の体系を相手にしている、というわけです。
つまり、アートの世界はもともとポストトゥルース的なんです。ピカソがかつて述べたように「芸術とは真実を伝える嘘である」といえばわかりやすいかもしれません。最初から明白な嘘であり、操作された虚構の現実なんだ、という前提がある。ただ、その虚構を通してしか伝えられない真実があって、それは事実への執着を批評的に捉える。つまりアートとはジャーナリズムとは違って、事実をできる限り虚飾なく、生のまま伝えるという情報伝播ゲームではない。むしろ、ウイルスがどんどん変異していく様子を世界的にウォッチするという、「ワンヘルス」のようなWHO的スローガンを反転した場所に、現代アートの場所が用意されている。すなわち、グローバルアートにおいては、医療体制が世界規模の自然界の変異に目を光らせていることとちょうど逆転した形で、個人や集団が担っている新たな文化的な変異体の独創性が競われている。敢えて皮相的な見方をすれば、美術界という村にはそもそも新しいもの好きな連中が集まっていて、どこそこのビエンナーレや芸術祭で、誰が、どういう新しい作品をつくって展示した、ということばかりが話題になっているというわけです(笑)。ケックからすれば、それは新型ウイルスの監視という、グローバルな医療監視のシステムの裏返しのように見える、というわけですね。ちなみに現代の医療が「ワンヘルス」を扱っているように、現代の芸術も、人間とさまざまな非人間の共同作業によって作られる「作品」に、新たな関心を注ごうとしています。
そう考えると、医療界と芸術界がやっていることは、グローバル化した世界で新たな変異体を扱う技術として、対照的な位置を占めることになります。こういったケックの考え方について、必ずしもそれを人間中心主義とは言えないのではないか、というのが僕の個人的な考えです。ケックが一貫して主張しているのは、いわば「One-World」とそれぞれの地域の歴史というものを調停する中に、我々の情報の世界があるということ。つまり、日本列島の住人は日本社会の中で新しい感染症神話を生み出しているし、それは香港・台湾・シンガポール・韓国の神話とも、ヨーロッパやアメリカ合衆国の神話とも異なっている。それは、必ずしも多文化主義的な「一つの自然」に対する態度の違いではありません。一つの社会から別の社会に移動するときに意味を反転させたり、変容させたりしながら現れてくる「構造」の次元にこそ、人間と非人間の間に穿たれたギャップを乗り越えていくさまざまな技術や物語が現れる、というポスト・レヴィ=ストロース的な考えになってくると思います。もっと細かく見ていくならおそらく地域ごとに、さらに稠密な感染症対策や文化的感受性の違いを描くことができるはずです。
■ TALK 08 塚原東吾 × 平田周|「グローバルとローカルの来たるべき「あいだ」へ」 -.icon
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Talk 7と、上妻世海と清水高志が抜群に面白かった。。
いろんなテーゼとテーマをもらったので、興味の幅が広がった。逆に言うとそのような程度で、俺にとっての練度はまだ低い。